せんべい
キャラクターせんべいです。
ある筋から、頂きました。
もったいなくて食べられないなあ……。
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仏教の生命観について考えています。
このようなことは関心・興味の有無にかかわらず、非常に大事なことだと考えます。
自分というもの、またその私を取りまく世界が、どのように成り立っているか、という問題は、私の人生に直接かかわってくる重要なことだと思うからです。
自分の思いもよらない問題がそこに隠されていて、望めばその真相を知ることができるのに、目の前のごく卑近なことだけにとらわれて、そこに目を向けることがなかったとしたら、それはとても残念なことだと思います。
現に今、私という生命が存在するのですから、その実態を明らかに知ることは、幸せに生きるには必要なことでしょう。それを知らずしては、どんな道を歩んでも真の成功はないはずです。
その私の生命観を、仏教でこのような言葉を通して詳しく説き明かされています。
「因果応報なるがゆえに来世なきにあらず
無我なるがゆえに常有にあらず」(阿含経)
まず、
「因果応報」とは、どんなことでしょう。
「因果」とは原因と結果のこと。仏教では、私たちの運命、幸不幸は因果の道理によって決まる、と教えられています。因果の道理とは、
善因善果(善い種をまけば善い結果)
悪因悪果(悪い種をまけば悪い報いが来る)
自因自果(自分のまいた種は必ず自分に現れる)
のこと。平たい言葉で言えば、
「善いのも悪いのも、まかぬ種は生えぬ、刈り取らねばならぬ一切は、自分のまいた種以外にはない」
ということです。この因果の道理は、大宇宙の真理ですから、いつ、どこへ行っても間違いはなく、この真理にしたがって、私たちは、禍福を受けるのです。ここで「種」とは各人の行為。お釈迦さまは、幸せになるかどうかは、自身の行い次第だと教えられています。
各自の種まきに応じた報いを、それぞれが受けることことを「応報」といわれ、その因果関係は先にも、後にも永遠に続いていきます。
どうしてそう言えるのか、続きは明日また。
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私たちは今、この世に生きていますが、この生命とはいかなるものか。
「死んだ後はあるんだろうか」
とか
「前世はあるのか」
と考えたことのある人は多いと思います。
このような問題に対して、いろいろな宗教がいろいろに説いています。
キリスト教やイスラム教が、多分に人間的、情緒的であるのに対して、仏教は仏陀の計り知れない智慧(仏智)に基づいて、世界や生命のありようを理性的に説かれています。仏教は、真理を悟ったというお釈迦さまの仰せが示すように、あるがままを観じてそれを伝えられているというスタンスです。
それは「人智で捏ね上げた説」と、「真理を観る智慧を体得した仏が、ありのままの世界を不完全な言葉で何とか伝えようとされた説」との違いです。どちらを信条とするかは各人の思いでしょうが、できれば本当のことを知りたいものです。
仏教の生命観について、聞く機会がありましたので、書いてみたいと思います。
私たちは生まれてから死ぬまでを一生とし、それが私の生命のすべてだと考えています。死後や前世を認める人でも、あくまでも今、知恵の及ぶ範囲内で判断した死後や前世であり、今の世界観の延長線上にあるもの。
そういう生命観の代表的なものとして、仏教では、
「有(う)の見(けん)」
「無(む)の見(けん)」
という二つの思想をあげられています。
これは死後をどう見るか、ということで、
「有の見」は死後があり、固定普遍の魂が永遠に続く、という考え。釈迦は「常見(じょうけん)外道(げどう)」ともいわれます。
「無の見」は死後はない。死ねば何も無くなる、という思想で、「断見(だんけん)外道(げどう)」ともいいます。
いずれもよく聞く、死後についての見解ですが、仏教ではいずれも「外道」と排斥しています。じゃあ、仏法は、どのような生命観を説くのか。それを端的に教えられているのが、この言葉です。
「因果応報なるがゆえに来世なきにあらず
無我なるがゆえに常有にあらず」(阿含経)
これはどういうことか。
続けて見ていきましょう。
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冬型の気圧配置で、富山はこの冬何度目かの大雪。そろそろ雪は終わりかな、と思っていましたがドッコイ、今冬、いちばんの降りです。
今朝は長靴がずっぽり埋まってしまうほどまで積もっていました。
雪カキのことを考えると、頭と腰が痛いです。
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この項の主題は「信心」。
詩人の谷川俊太郎さんによる『信じる』という合唱曲の歌詞、
「信じることは 生きるみなもと」
から考えています。ここでは、
生きる=信じる
だと当初から書いています。
言葉をかえると、どんな信心を持つかで、人生は変わる、ということです。また、
「信心はその人の生きざまである」
ともいえるでしょう。金がすべての人、仕事が生きがいの人、家族大事の人。何か一つに徹底的に打ち込む人、いろいろ浅く広くかかわる人。人の数だけ信心があり、一つとして同じになるものはないと、誰もが思っています。
ところが仏教で教えられる真実の信心は、すべての人が阿弥陀仏から賜る信心ですから、みな同じになります。これを他力の信心ともいわれます。
この信心を別の言葉で、
「真知(真に知んぬ)」
「明知(明らかに知られたり)」
「深信(じんしん)」
といいますが、いずれも
「ハッキリ知らされた」
という意味です。もう間違うことなく、疑う余地のない明らかなことであった、ということです。
ここで何がハッキリするのでしょう。
それを親鸞聖人は、
「『本当の自分』と『弥陀の本願』である」
と仰っています。
「私」のことを仏教で「機」といいます。本当の自分が阿弥陀仏のお力によって明らかに知らされるから、本当の自分が知らされたのを「機の深信」といいます。
私を絶対の幸福に救ってくださる「弥陀の本願」を「法」といいます。この「法」に露塵の疑心もなくなったのを、「法の深信」といいます。
この、「機の深信」と「法の深信」が同時にハッキリする信心を
「機法(きほう)二種(にしゅ)一具(いちぐ)の深信(じんしん)」
といいます。真実の信心か否かの判定は、この二種深信がたったか否か、のみで成される、というのが浄土真宗で教えられる信心です。
疑いを抑えて、信じ込もうとする信仰とは、明らかに違いますから、よく知っていただきたいと思います。
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親鸞聖人や蓮如上人がいわれる、
「信知(信に知んぬ)」
「真知(真に知んぬ)」
「明知(明らかに知られたり)」
「深信(じんしん)」
とは、いずれも仏教で教えられる真実の信心を教えられた言葉です。
通常私たちが使う「信じる」ではなく、文字通り「知る」ということです。
「深信」も同じ意味ですから、仏教で教える信心とは、
「疑いながらそれを封じて信じる」
というものではなく、
「ハッキリと知らされた」
というものなのです。
たとえば、
「うちの夫は男だと信じています」
という妻は、たぶんどこにもいないでしょう。
きちんと自分で確かめているからです。
あえて言うなら、
「夫は男だと知っている」
となる。もし
「うちの夫は男だと信じています」
と言う妻がいれば、小説や舞台の題材になるような奇妙なこととして取り上げられるでしょう。
「昨日の天気は、晴れだと信じている」
とは言わないでしょう。経験してしまっていることですから、ふつうは
「昨日は晴れだった(と知っている)」
と言います。
疑う余地のない、ハッキリしたことは、「信じる」ではなく「知る」と言うのです。
仏教では、このような明らかな信心を教えられています。
では、何が明らかになるのでしょう?
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今日は、職場の懇親会があり、福井のあわら温泉へ来ました。
眺めのよい部屋から一枚。
あたりは田園風景です。
おいしい食事をたくさん頂きました。
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